ある時、ふと立ち止まって、
「私、何の為に生きてるんだろう?」などと思うことが時々…いや、しばしばある。
これは小さい時からずって続いている。

リコーダーを振り回しながらの小学校からの帰り道。
いつもの道、いつもの垣根、いつもの犬、いつもの坂道が、まったく知らない町に見えて、
「私って、何だろう? 何の為に生きてるんだろう?」って立ち止まって考える。

なんで学校に行くんだろう、なんで勉強するんだろう、なんでご飯を食べるんだろう、なんで家族という人達と暮らしているんだろう、なんで昨日よりも今日を楽しく生きようとしているんだろう…と、これらの問いはえんえん続くのだ。

時は流れて、アラフォーとアラフィフの間にいる私。
慌ただしい毎日に、やはりふと立ち止まる。
「私って何の為に生きてるんだろう?」
こういう問いはぼんやり考えるのはまだいいのだが、突き詰めて考えると結構あぶない。

ある仏教者曰く、
「人生に意味なんかない。意味を求めようとするから、精神を病むのだ」と。

この言葉をなるべく早く思い出して、ぐるぐる思考から抜け出すようにしている。

また、「意味はあって、無い」のが、人生だと仏教は謂う。

自分は何かの役に立っているのか、社会の役に立っているのか、という問いも同様で、あまり考えるものではない、という。

ある仏教者は、この問いに対して、「自分が何か、社会に有用だと思うこと自体、意味がない。せいぜい1人か2人の役に立っていれば、人生はそれで大成功」なのだと。

と、すれば、私は誰かの役に立っているだろうか。うーん、確かに1人か2人の役には立っているだろう。
ということは、人生として、大成功なのだろう。

ご飯を作ったり、洗濯したり、掃除したり、仕事したり、雑用で忙しかったり、そんな慌ただしい生活の中で、自分に言い聞かせている。

「おまえはまあまあ役に立ってるんだぞ」、と。

意味は有るけれど、無い。
無いけれど、有る。

立ち止まりながら、ブツブツ言いながら、今日もありがたく生きてみる。