父がなくなって4年目。

変な話だが、父が鬼籍に入ったという実感が未だにまるでない。

父の人なつこい笑顔は思い出せばすぐそこにあるし、よく響く心地よい声はすぐ聞くことができる。

会いたいな、と思うことはあるけれど、会えている、というのも本当なのである。

私の父は、いわゆる一般的な父親像とはちょっと違う。

父親らしい、というところはなく、男くさくもなく、飄々としていて、同居人のような存在だったのである。

だから、正直、人の家庭の父親の話を聞いて、違和感を覚えたことが何度もある。「ふぅん、父親って、そんなことするのかぁ」と。

そんな父の性分は、彼の生い立ちのせいかもしれない。

父は静岡県出身で、大家族の5人兄弟の末っ子である。

そして6歳という母恋の年頃で母を病気で失った。
つまり私の祖母は39歳という若さでこの世を去った。
一番可愛がっていたのが、末っ子の父だったらしい。

父は失った母への思慕を秘めて成長した。若い頃は相当モテたらしいが、女性への複雑な想いがあったのだろうと思う。

母曰く、いつも違う女性を連れていて遊び人にみえた、と。

東京で母と出逢った父は、一人っ子の母のもとへ婿入りし、茨城に来た。
そして、静岡と茨城のハーフの私が次女として生まれたわけだ。

父と私の仲は良好だったとは言えない。
父親らしいところがない父と、父を父親と認識できない娘。

いろいろあったのはご想像にお任せするが、不思議なことがひとつだけある。

それは父が亡くなる前の一年半ぐらい、何故か父とよく接する機会があって、長年なかなか言えなかったことを話す時間が持てたのである。

神様がいるかどうかは知らないが、何かの粋な計らいだったのだろうか。
父の死の少し前が、私にとっては父とのコミュニケーションを初めて濃密にとれた時間だったのだ。

そして、恥ずかしながら、白状すると私は生まれてから最後まで父のことを「パパ」と呼んでいた。

だから今も心の中で話しかけるときは、「パパ、」から始まるのである。するとパパの笑顔が現れて「パパだよ」と返事をしてくれるのだ。

小さい頃は私を毎晩お風呂に入れてくれたパパ。あの頃にしてはイクメンの走りだったのか。それが唯一の父親らしいことだった記憶なのかもしれない。

そんなことないか。
パパはパパのやり方で家庭を支えて子供を養い、母に全てを捧げて死んでいった。

最近は、気がつくと、パパ、と呼びかけている。
生きている時より頻繁に。

そしてひとつだけ、謝れなかったことがある。この場を借りて謝りたい。

パパ、あの時は跳び蹴りしてごめんね。