「まんなか」世代のみなさんこんにちは。
秋の深まりとともに夫婦の溝の深まりも実感していたら、
いつの間にか冬になっていたことに気づいて愕然とするウサ夫です。
季節はもう、戻せないですよね……。

でも溝があっても、珍しく夫婦で意見が一致することもあります。

「小泉今日子はいくつになってもいい女である」

というのもそのひとつ。

なぜ小泉今日子さんはいい女なのか。

「いつも自然体だから」とか、「素敵に年を重ねているから」とか、
いかにも女性誌に載っていそうなフレーズを並べてみせることはできるでしょう。

でもそれだけでは説明が足りません。

肝心なのは、「なぜ自然体でいられるのか」
「なぜ素敵に年を重ねられるのか」という理由。
それを解き明かさないことには、小泉今日子の魅力の秘密はわからないのです。

ところで、日曜日のウサ夫の楽しみといえば、コンビニに行って新聞を買うこと。
ふだん家で新聞は購読していませんが、日曜日だけは例外。
なぜかって?
目的は 日曜版に掲載される書評欄。
これを読み比べながら、話題の本をチェックするのがささやかな楽しみなのです。

そんなある日のこと。
読売新聞の書評欄に「小泉今日子」という名前を見つけました。

執筆陣には大学の先生や新聞社の編集委員などもいるので、
はじめは同姓同名の別人かとも思いましたが、まぎれもない小泉今日子さんご本人。

それが小泉今日子のもうひとつの才能――それも、とてつもない才能を目撃した
記念すべき日になろうとは、その時は思いもしませんでした。

『小泉今日子書評集』(中央公論新社)は、
2005年1月から2014年12月まで、
10年間にわたって読売新聞紙上で発表された
小泉さんの97冊ぶんの書評をまとめた書評集。

これがもう、ほんとうに素晴らしい。
こうしてまとまったものを読み直してみて、
あらためてものすごい才能の持ち主だということを痛感しました。

そしてこの本の中にこそ、
「小泉今日子はなぜいい女なのか」という謎を解くヒントが詰まっていると思うのです。

ところで、ひとくちに書評といっても、いろんなタイプがあります。

よくあるのは、本の概要を手際よくまとめたもの。
膨大な読書量で知られる評論家の立花隆さんなどは、
本は必要な情報が書いてあるところしか読まないとおっしゃいます。
(『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本』)

本は情報媒体に過ぎないと考える立花さんのような人には、
内容がかいつまんで解説されているものこそが書評なのでしょう。
(立花さんご自身もそういう書評をお書きになります)

これに対して、数は少ないけれど、
まったく違うアプローチで書かれる書評があります。

読まれた本が、
いちどその人のからだの中を通り抜けて、
別のものとして生まれ変わったような書評というか。

世の中には、まるで呼吸するかのように本を読む人がいます。
つまり生きることと本を読むことが、ぴたーっと重なり合っている人がいる。

そういう人の選ぶ本には、
ごく当たり前のようにその時々での、その人の人生が投影されています。

もちろんそれが書評ともなればなおのこと。
書かれた文章には、その人自身が刻印されている。

小泉今日子さんの書評はまさにそういうものでした。

誰か別の人が書いた本の書評であるにもかかわらず、
もはやそれは現実の本とは別のもの。
「小泉今日子」の色がついたひとつの作品になっているのです。

面白いですよね、書評って。
他人の本について語っているにもかかわらず、
そこには小泉今日子さん自身がひっそりと
心の奥底にしまってあったことすらも露わになってしまうんですから。

書評でありながらも、そこにあるのは彼女の人生そのもの。

まさにそれは誰がなんと言おうと
「小泉今日子にしか書けなかった書評」としか言えないものなのです。

あらためてその書評デビュー作をみると、
吉川トリコさんの『しゃぼん』が取り上げられています。

これがいま読み返しても素晴らしい。

「女の子」と「女」の違いを切り口に書かれた短い書評には、
「女の子という骨組み」に、「贅肉のようなもの」を纏って女になった
小泉今日子さん自身の実感が色濃く投影されていて心に残ります。

角田光代さんの『人生ベストテン』の書評はこんなふうにはじまります。

「三十代。恋愛の悩みを近しい人に軽々しく相談出来るほど若くないが、
その問題自体から解放されるほど年を取ってもいない。これは現在三十九歳の
私の実感であり、この先は未知の世界だ」

「まんなか世代」のみなさんも共感できる恋愛観では?
かと思えば、こんなくだりも。

俵万智さんの歌集『プーさんの鼻』におさめられた一首
<秋はもういい匂いだよ早く出ておいでよ八つ手の花も咲いたよ>
に添えられた感想は――、

「まだお腹の中にいる子供へ呼びかける歌には、女に生まれたからには
味わってみたい羨ましい時間がそこにある」

思わず、この文章が書かれた時の、彼女の年齢を計算してしまう。
だから5年後に書かれた伊吹有喜さんの『四十九日のレシピ』の書評に
どきりとする。

「四十歳を過ぎた私の人生の中で、やり残したことがあるとしたら
自分の子供を持つことだ。時間に限りのあることだから、ある年齢を
過ぎた女性なら一度は真剣に考えたことがあると思う。家族の再生を描いた
心優しいこの物語を読んで、私はそんな思いから少しだけ解放された」

彼女が決して人前ではみせたことのない姿も語られます。
筒井ともみさんの『おいしい庭』の書評では――、

「私のマンションの部屋には小さな庭が付いている。そこが気に入って住んでいる。
日当たりが良く、土も良いらしく、たいして世話をしていないのに植物たちは元気に
花を咲かせてくれる。この庭の草むしりをしている時、私は自分の心の奥に
ひっそりと眠る少女心を手入れしているような気分になり、いつも少し泣きたくなる」

間違ってもこんなこと雑誌のインタビューでは明かさないでしょう。
人にみせたことない部分もこうして思わず語ってしまう。
文章を書くという行為が、いかにパーソナルなものであるかがよくわかります。

と同時に、10年間に書かれた書評を(つまりは彼女の人生を)通覧して
わかるのは、「彼女がとても正直であること」です。

その正直さは、年のとり方にも現れている。
彼女は変化することを恐れないのですね。

年をとることで自分の身の上に起きる変化をまるごと受け止めて、次へ進んでいく。

その正直で真摯な姿勢に、ぼくたちは潔さを感じてしまう。
小泉今日子の魅力というのは、おそらくこのあたりにあるのではないでしょうか。

まさに「まんなか世代」にとって学ぶところの多い人です。

ところで、彼女はなぜ本を読むようになったのでしょうか。

「本を読むのが好きになったのは、本を読んでいる人には
声を掛けにくいのではないかと思ったからだった」

こんな文章ではじまる「まえがき」がとても素晴らしい。

忙しかった10代の頃に、
人と話をするのも億劫で彼女はいつも本を開くようになります。
当初は「どうか私に話しかけないでください」とアピールするためでしたが、
それでも本を読み終えると、

「心の中の森がむくむくと豊かになるような感覚があった」

本が好きな人間であれば誰もが身に覚えのある、
本を読んだあとに自分の内側に起きるあの化学変化を、
このような生き生きとした言葉で語ってみせた文章があるでしょうか。

もっと言うならば、この「まえがき」自体が
久世光彦さんの追悼文にもなっていて、実に見事なのですが。

ひとりの女性の10年にわたる人生の試行錯誤が綴られると同時に、
彼女が出合うべくして出会った97冊もの本のブックガイドにもなっている。

こんな素敵な本はちょっとないですよ。